居場所が無かったら映画館に行けばいい(小野さやかさん)
とにかく体を張っている。全編に、張り詰めた緊張感、生々しさ、切実さが溢れ、
映画で描かなくてはならないという強い意志が漲っている。
ここまで体当たりで、イノチガケな映画は滅多にない。
師匠である原一男作品を彷彿とさせ、原監督自身も絶賛したドキュメンタリー映画
『アヒルの子』の監督・小野さやかさんに話を伺いました。
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第12回:小野さやかさん(『アヒルの子』監督)

『アヒルの子』←公式サイトへ
シネマ・ジャック&ベティにて上映中!
7/24(土)~7/30(金)19:55~21:35
※26(月)~30(金)は小野さやか監督来館予定
★どうせ死ぬなら、映画を撮って死にたい
Q:しかし、本当に最初から最後まで涙の量が半端じゃない映画ですね。撮影期間はどのくらいだったんでしょうか?
小野:2004年7月から12月までの半年くらいです。
Q:半年間泣きっぱなしだったわけですね。期間中、少しは笑ったりするときもあったんでしょうか? カメラが回ってないときとか。
小野:いや、本当に一切笑ったりしませんでした。スタッフと一緒に青春18きっぷで、12時間くらいかけて東京から愛媛まで行ったときも、ずっとしかめっ面で、異様な空気を作り続けていました。
Q:その状態を維持し続けるのは大変ではなかったですか?
小野:撮影当時は20歳で、家族の中にカメラを持ち込むという中で、家族の中でいい子であった私は、撮影を通して常に限界を超えるという緊迫状態でした。出演者でもありながら演出というポジションでもあったので、終わるまでは、私が気を抜いてしまってはいけないと思っていました。ここで諦めてしまっては答えが見つからないというか。作品が形になるまでは絶対にやり遂げなくてはいけないという気持ちでした。
Q:スタッフと一緒にいる時間と、プライベートの時間とで切り替えていたのでしょうか?
小野:最初の1ヶ月は独白シーンの撮影で、部屋にカメラを固定して、家族に対する呪詛の言葉を吐き出すという撮影をしました。毎日思うことがあればカメラの前で話し、感情の殴り書きのようなものをスタッフに書いて渡しました。分量では160枚
くらいになるかと思います。撮影当初は、スタッフのことを誰一人信用することができず、映画を作るための必要最低限の人数でチームを結成しました。ただ、撮影の山内大堂はカメラセンスが抜群にうまかったので、彼の家まで行ってスタッフとして
入ってほしい、とくどきおとしました。山内には「風呂だろうとトイレだろうと、山内が必要と思えば(カメラを)まわせ。」と言い、スタッフと撮影でもめた時には「この作品が完成しなければお前ら全員殺す」と言っています。それ程、家族を傷つけてまで
映画を撮る責任を、スタッフにも同様に感じてほしいと思っていました。なので、撮影終了時まで気を抜く暇はなかったように思います。

小野さやかさんと編集を担当した大澤一生さん。ジャック&ベティの応接室にて。
Q:そもそも家族に対する思いとか、トラウマとか、そういうものを映像として作品にしようと考えたきっかけは何だったんでしょうか?
小野:まず映画の原体験からお話しますと、私が生まれた新居浜市の商店街には昔、12軒ほどの映画館があったそうです。映画産業や住友銅山の衰退などにより、一館閉鎖し、また閉鎖、と私がもの心つく頃にはたった一館しかありませんでした。その最後に残った映画館には中学生くらいのときによく通いました。
Q:中学生でもう一人で、映画館で観てたんですね。
小野:映画が好きになったのは、金曜ロードショーで観た『スタンド・バイ・ミー』がきっかけでした。本当は映画なんか興味がなくて、歌番組とかドラマとかを見たかったのですが、多数決で決まって仕方なく観ていたら私が一番ハマってしまったんです。そこから映画に飢えて、どうすれば愛媛で映画を自分のそばに置けるかということを考えるようになりました。それで、その商店街の映画館に行くようになったのですが、ある日、お客さんが一人だったんです。
Q:え、一人?
小野:はい。しかも公開初日。確か、二コール・キッドマンとユアン・マクレガーが出てて、ミュージカルの「ムーランルージュ」でした。雑誌ですごい宣伝してたんですよ。それなのに、観客が自分一人という衝撃。ミュージカルって楽しいものなのに、お客さんが私しかいないなんて愕然としました。その後、その映画館は潰れました。いまは近くにシネコンができたようですが、商店街の映画館はそれが最後でした。
Q:そうでしたか。ジャック&ベティの前の通りも同じようなものです。昭和の終わり頃まではたくさんあったんですが、今ではここだけになってしまいました。90年代はシネコンが台頭してきて、町の映画館はどこも厳しい状況に追い込まれました。もっとも、いまも厳しいことは変わりありません。僕も映画館で食べていくことができず、去年ここを辞めました。でも、映画館はまだこうして頑張っています。それで、その後映画の道に進んだわけですね。
小野:はい。映画の端っこでもいいから映画の役にたちたいと思って上京しました。でも東京で暮らすようになって、自分の居場所がなく、存在価値が感じられず生きづらさを感じるようになったんです。東京はあまりに駄々広くて、あまりに人が多く、あまりに情報が氾濫していて、どれが正しいのかわからないという中で、自分が思うことが言ったそばから否定されていくような、そんな感覚に陥ってしまいました。自分が言ったことに自信が持てず、人との関係性も持てなくなり、自分が生きている意味なんてあるんだろうかと、そんな否定的なことばかり考えるようになりました。
Q:その気持ちを文章ではなく映像で表現しようと思ったのは何だったんでしょうか?
小野:その頃、死にたいという考えに取り憑かれていて、死ぬんであれば、最後に映画を撮って死ねばいいと思いました。
★過激さと冷静さの狭間で
Q:文章書くのは一人でできますが、映画は他人と関わらなければ撮れないわけですよね。他者と関わりたいという気持ちがあったんでしょうか?
小野:それが魅力的だったんだと思います。その頃、誰とも話しができないし、みんなが人生の主人公に見えて、自分の言うことが聞いてもらえないと思っていたので、映画作りの中で誰かと関わりたい、人の中に入り込みたいという気持ちがあって、それを発散するようなところもありました。小野さやかという人間がちっぽけすぎて、それをぶち壊して小野さやかでないものに到達したいという衝動でした。しかし、それにつきあうスタッフは大変だったと思います。

上映後の交流会の様子。世代によって、立場によって、様々な意見が飛び交った。
Q:スタッフ間でのコミュニケーションはどんな感じだったんですか?
小野:最初の1ヶ月の独白の間に自分の中で家族とどう向き合っていくかということがだいぶ整理できたので、それを伝えて、順番に進めていったという形です。でも企画の段階では全然違う、もっと過激なものを考えていたんですが……
Q:どのくらい過激だったんでしょうか?
小野:家族の会社に垂れ幕を張って、こいつらは私にこんなことをしたから訴えてやるとか、拳銃を持ち出して家族に宣戦布告するとか、映像的に面白ければ何でもいいやと思っていました。原一男監督のプロデューサーの小林佐智子さんに企画を見せたら、「あなたは家族のことを愛してますか?」って静かに聞かれて、「もちろんです!」と答えたんですが、じゃあもう少し考えましょうかということになって、みんなの意見を聞きながら考えました。結局、家族と向き合うという一番シンプルな形に落ち着きました。
Q:拳銃は本気で撃とうと思っていたんですか?
小野:上に向かって撃とうくらいに思っていました。家族の秘密を暴くというのが目的だったので、法的なことはニセ物だったとか理由は後付すればいいと思ってました。本人に撃つというよりは、生きづらさに向かってぶっ放すみたいなそういうイメージでした。
Q:自分の感情を全部出すんだけど、ちゃんと映画的にどう成立するのかということを考えながら進めていったんですね。
小野:そうですね。家族のシーンは昔から続いているであろう普遍的なテーマを描きたいと思いました。ただ、後半のヤマギシの部分はまったくノープランでした。拳銃を探していて、たまたま名簿が見つかったので会いに行こうかと。名簿が見つかったことでこの作品の世界が広がったと思います。
Q:ヤマギシのかつての同級生たちを訪ねて行って、実際に会ったらみんな過去を客観的に振り返られる人たちばかりでした。あのときはどんなことを考えながら向き合っていたんですか?
小野:みんな5歳の頃親元を離れて共に暮らした子どもたちなのですが、同じ年の割りにすごく大人っぽくてしっかりしていたので、それまでは妄想の世界に生きていたのが、現実を見せられたというか。拘っていたのは私だけだったのか、いつまでもギャアギャア言ってる場合じゃないという気持ちになりました。
★原一男監督も認めた、命がけの映画
Q:ところで、この映画に出てくる人みんな優しいと思いました。お父さんとお母さんも、カメラが入っている状況で真剣に話を聞いて向き合ってくれてましたし。映画を撮って、家族との関係性はどう変わっていきましたか?
小野:この映画を作ってから2年くらいは、家族の中で誰も映画のことは口にできない、家族の中のタブーみたいになっていました。過激すぎて誰も受け入れられなかったんです。その間、長男が結婚して子供ができたり、父が病気になったり、いろんな出来事があって家族の形が変わっていく中で、次第にこの映画への執着が薄れていったんです。ようやく今年ポレポレ東中野で公開のためにもう一度家族に公開の許可をとりました。これだけ時間がかかったのも、この映画のやったことの重大さだと思いますし、家族が変わらなければこの映画は受け入れてもらえず、映画として一番不幸な「お蔵入り」で終っていたと思います。
Q:制作して公開まで6年も経っていますが、その間に作品に対する思いに変化はありますか?
小野:6年前だったらこんなに人に受け入れてもらえなかったのではないと思います。6年前は、私と映画は一体だと固執していて、映画の批判=自己否定になってしまいましたが、ようやく映画との距離感がつかめるようになりました。いまは観てくれた人はどう考えたんだろう、どう受け止めたんだろうという方向に興味が向くようになりました。作品が自分のものであるという考えからようやく自由になれたと思います。映画を人に観てもらって、初めて映画になったという気がします。
Q:この作品の製作総指揮である原一男さんですが、実は以前にこのインタビューに出ていただきました。そのとき、「最近の若い奴は命がけで映画を作っていない。なよなよしててけしからん!」と嘆いていました。そんな原さんが応援したのには、やはりこの作品の命がけの真剣さが伝わったからだと思います。原さんは出来上がったときなんと言っていましたか?
小野:原さんはこの映画の5人目のスタッフというスタンスで関ってくださりました。原さんがいなければできなかったことがたくさんありますし、先輩の胸を借りるつもりで作りました。傑作だ、と言ってくれています。
Q:原さんは、昭和から平成に変わって問題が見えにくくなっていて、テーマを外部に求めるのではなく、自分の内面や、家族などのごく近い範囲に求める傾向があると批判的におっしゃっていました。そのような状況の中で、小野監督も今後何を撮っていくかというのは考えていかなければいけませんね。
小野:私は実は昭和の人間なんです。『極私的エロス・恋歌1974』大好きですし。原さんのやり方を受け継いで、今の時代にどういうものが残せるか、自分が残したいものは何かということを考えて、形にしていきたいと思っています。いま企画を構想中ですが、自分の家族ことや、先祖の時代まで遡って、何が消えかけているか、何が今の時代に重要なのかということを考えています。結局、人に観てもらう映画を作るということは、今の時代に必要なものを形にするということなんだと思います。
★5年前だったら受け入れられなかった
Q:大澤さんは「アヒルの子」にはどのように関ったのですか?
大澤:「アヒルの子」では主に編集として関わりました。
Q:編集は映画を作る上で一番重要な部分ですよね。監督と相談しながら編集していったのでしょうか?
大澤:意見は取り入れながらやりましたが、全部聞いていると収集がつかないので、できる範囲内でという感じでした。
Q:編集するときはやはり、観る人のことを考えて作るものでしょうか?
大澤:そうですね。学生の卒業制作とはいえもちろんそこは強く意識しました。完成間際くらいのときにこの作品は劇場公開するべき作品だと、これは行けるだろうという手ごたえを感じていました。
Q:この作品のテーマが時代に要求されるものがあるというような、ピンときた部分があったということでしょうか?
大澤:はい。いろんなきっかけで、観てもらえる作品だろうと思ってましたね。
Q:実際上映して、手ごたえはどうでしたか?
大澤:非常に面白かったです。やはり5年寝かせたというのが功を奏したと思います。5年前の社会状況といまとは違っていて、5年前だったらこういう映画はもう終っただろう、2000年代初頭、もしくは90年代後半の感覚だろうと。でも5年経って、また揺り戻しがきている気がします。エヴァンゲリオンが流行った90年代後半から10年経ってまた戻ってきた感じというか、モラトリアムな感じが実はまだ燻っているということが、表面的には見えなかったけれど、お客さんの反応を見て、求めている人、待っていた人がいるんだなあということがわかりました。これはある程度予測はしていましたが、劇場で反応を見て実感できました。まあ本当はすぐ公開するつもりだったんですけれど、結果的にいいタイミングで上映することができました。
Q:最後に監督にお聞きしますが、最後に100年後の映画館はどうなっていくと思いますか?またどうなって欲しいと思いますか?
小野:それは私たち作り手も考え続けなければいけないことだと思っています。ネットで観れたり、3Dが出てきたり、映画を取り巻く状況は変わり続けていますが、映画の原点は自分一人で楽しむものではなくて、人と観る喜びであると確信しています。そして私にとって映画館は、家族が崩壊していて人生に居場所が無いと思ったときに、家族から逃げる場所でした。そんなふうに誰かのための避難場所であって欲しいし、誰かと出会う場所、映画と出会う場所であり続けて欲しいと思っています。そのためにも、私も作り続けるという形で貢献していきたいと思っています。映画を体験してもらうためには、まずは子供を映画館に連れて行くというようなことから始めなければいけませんね。
Q:その前に、子供を作らなければいけませんね。
小野:そうですね(笑)
Q:監督の笑顔が見れてよかったです。映画のままだったらどうしようかと思いました。今日はどうもありがとうございました。
2010年7月17日(土) ジャック&ベティ応接室にて
<プロフィール>
小野さやか
1984年生まれ、愛媛県出身。高校卒業後日本映画学校に入学。2年次から映像ジャーナルゼミに所属し、ドキュメンタリーの制作を学ぶ。本作品は同校卒業制作として制作された。本作が初監督作品。
◎小野監督ブログ『白鳥になりたいのよ、わたし』
大澤一生(おおさわかずお)
1975年生まれ。日本映画学校でドキュメンタリーの制作を学び、卒業後には独立系ドキュメンタリー映画の制作に携わる。『戦争をしない国 日本』(06)に助監督、『バックドロップ・クルディスタン』(07)に製作、撮影、編集として参加。『ただいま ~それぞれの居場所~』(10)に録音として参加。今後の活躍が期待される若手プロデューサーの一人。
映画で描かなくてはならないという強い意志が漲っている。
ここまで体当たりで、イノチガケな映画は滅多にない。
師匠である原一男作品を彷彿とさせ、原監督自身も絶賛したドキュメンタリー映画
『アヒルの子』の監督・小野さやかさんに話を伺いました。
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第12回:小野さやかさん(『アヒルの子』監督)

『アヒルの子』←公式サイトへ
シネマ・ジャック&ベティにて上映中!
7/24(土)~7/30(金)19:55~21:35
※26(月)~30(金)は小野さやか監督来館予定
★どうせ死ぬなら、映画を撮って死にたい
Q:しかし、本当に最初から最後まで涙の量が半端じゃない映画ですね。撮影期間はどのくらいだったんでしょうか?
小野:2004年7月から12月までの半年くらいです。
Q:半年間泣きっぱなしだったわけですね。期間中、少しは笑ったりするときもあったんでしょうか? カメラが回ってないときとか。
小野:いや、本当に一切笑ったりしませんでした。スタッフと一緒に青春18きっぷで、12時間くらいかけて東京から愛媛まで行ったときも、ずっとしかめっ面で、異様な空気を作り続けていました。
Q:その状態を維持し続けるのは大変ではなかったですか?
小野:撮影当時は20歳で、家族の中にカメラを持ち込むという中で、家族の中でいい子であった私は、撮影を通して常に限界を超えるという緊迫状態でした。出演者でもありながら演出というポジションでもあったので、終わるまでは、私が気を抜いてしまってはいけないと思っていました。ここで諦めてしまっては答えが見つからないというか。作品が形になるまでは絶対にやり遂げなくてはいけないという気持ちでした。
Q:スタッフと一緒にいる時間と、プライベートの時間とで切り替えていたのでしょうか?
小野:最初の1ヶ月は独白シーンの撮影で、部屋にカメラを固定して、家族に対する呪詛の言葉を吐き出すという撮影をしました。毎日思うことがあればカメラの前で話し、感情の殴り書きのようなものをスタッフに書いて渡しました。分量では160枚
くらいになるかと思います。撮影当初は、スタッフのことを誰一人信用することができず、映画を作るための必要最低限の人数でチームを結成しました。ただ、撮影の山内大堂はカメラセンスが抜群にうまかったので、彼の家まで行ってスタッフとして
入ってほしい、とくどきおとしました。山内には「風呂だろうとトイレだろうと、山内が必要と思えば(カメラを)まわせ。」と言い、スタッフと撮影でもめた時には「この作品が完成しなければお前ら全員殺す」と言っています。それ程、家族を傷つけてまで
映画を撮る責任を、スタッフにも同様に感じてほしいと思っていました。なので、撮影終了時まで気を抜く暇はなかったように思います。

小野さやかさんと編集を担当した大澤一生さん。ジャック&ベティの応接室にて。
Q:そもそも家族に対する思いとか、トラウマとか、そういうものを映像として作品にしようと考えたきっかけは何だったんでしょうか?
小野:まず映画の原体験からお話しますと、私が生まれた新居浜市の商店街には昔、12軒ほどの映画館があったそうです。映画産業や住友銅山の衰退などにより、一館閉鎖し、また閉鎖、と私がもの心つく頃にはたった一館しかありませんでした。その最後に残った映画館には中学生くらいのときによく通いました。
Q:中学生でもう一人で、映画館で観てたんですね。
小野:映画が好きになったのは、金曜ロードショーで観た『スタンド・バイ・ミー』がきっかけでした。本当は映画なんか興味がなくて、歌番組とかドラマとかを見たかったのですが、多数決で決まって仕方なく観ていたら私が一番ハマってしまったんです。そこから映画に飢えて、どうすれば愛媛で映画を自分のそばに置けるかということを考えるようになりました。それで、その商店街の映画館に行くようになったのですが、ある日、お客さんが一人だったんです。
Q:え、一人?
小野:はい。しかも公開初日。確か、二コール・キッドマンとユアン・マクレガーが出てて、ミュージカルの「ムーランルージュ」でした。雑誌ですごい宣伝してたんですよ。それなのに、観客が自分一人という衝撃。ミュージカルって楽しいものなのに、お客さんが私しかいないなんて愕然としました。その後、その映画館は潰れました。いまは近くにシネコンができたようですが、商店街の映画館はそれが最後でした。
Q:そうでしたか。ジャック&ベティの前の通りも同じようなものです。昭和の終わり頃まではたくさんあったんですが、今ではここだけになってしまいました。90年代はシネコンが台頭してきて、町の映画館はどこも厳しい状況に追い込まれました。もっとも、いまも厳しいことは変わりありません。僕も映画館で食べていくことができず、去年ここを辞めました。でも、映画館はまだこうして頑張っています。それで、その後映画の道に進んだわけですね。
小野:はい。映画の端っこでもいいから映画の役にたちたいと思って上京しました。でも東京で暮らすようになって、自分の居場所がなく、存在価値が感じられず生きづらさを感じるようになったんです。東京はあまりに駄々広くて、あまりに人が多く、あまりに情報が氾濫していて、どれが正しいのかわからないという中で、自分が思うことが言ったそばから否定されていくような、そんな感覚に陥ってしまいました。自分が言ったことに自信が持てず、人との関係性も持てなくなり、自分が生きている意味なんてあるんだろうかと、そんな否定的なことばかり考えるようになりました。
Q:その気持ちを文章ではなく映像で表現しようと思ったのは何だったんでしょうか?
小野:その頃、死にたいという考えに取り憑かれていて、死ぬんであれば、最後に映画を撮って死ねばいいと思いました。
★過激さと冷静さの狭間で
Q:文章書くのは一人でできますが、映画は他人と関わらなければ撮れないわけですよね。他者と関わりたいという気持ちがあったんでしょうか?
小野:それが魅力的だったんだと思います。その頃、誰とも話しができないし、みんなが人生の主人公に見えて、自分の言うことが聞いてもらえないと思っていたので、映画作りの中で誰かと関わりたい、人の中に入り込みたいという気持ちがあって、それを発散するようなところもありました。小野さやかという人間がちっぽけすぎて、それをぶち壊して小野さやかでないものに到達したいという衝動でした。しかし、それにつきあうスタッフは大変だったと思います。

上映後の交流会の様子。世代によって、立場によって、様々な意見が飛び交った。
Q:スタッフ間でのコミュニケーションはどんな感じだったんですか?
小野:最初の1ヶ月の独白の間に自分の中で家族とどう向き合っていくかということがだいぶ整理できたので、それを伝えて、順番に進めていったという形です。でも企画の段階では全然違う、もっと過激なものを考えていたんですが……
Q:どのくらい過激だったんでしょうか?
小野:家族の会社に垂れ幕を張って、こいつらは私にこんなことをしたから訴えてやるとか、拳銃を持ち出して家族に宣戦布告するとか、映像的に面白ければ何でもいいやと思っていました。原一男監督のプロデューサーの小林佐智子さんに企画を見せたら、「あなたは家族のことを愛してますか?」って静かに聞かれて、「もちろんです!」と答えたんですが、じゃあもう少し考えましょうかということになって、みんなの意見を聞きながら考えました。結局、家族と向き合うという一番シンプルな形に落ち着きました。
Q:拳銃は本気で撃とうと思っていたんですか?
小野:上に向かって撃とうくらいに思っていました。家族の秘密を暴くというのが目的だったので、法的なことはニセ物だったとか理由は後付すればいいと思ってました。本人に撃つというよりは、生きづらさに向かってぶっ放すみたいなそういうイメージでした。
Q:自分の感情を全部出すんだけど、ちゃんと映画的にどう成立するのかということを考えながら進めていったんですね。
小野:そうですね。家族のシーンは昔から続いているであろう普遍的なテーマを描きたいと思いました。ただ、後半のヤマギシの部分はまったくノープランでした。拳銃を探していて、たまたま名簿が見つかったので会いに行こうかと。名簿が見つかったことでこの作品の世界が広がったと思います。
Q:ヤマギシのかつての同級生たちを訪ねて行って、実際に会ったらみんな過去を客観的に振り返られる人たちばかりでした。あのときはどんなことを考えながら向き合っていたんですか?
小野:みんな5歳の頃親元を離れて共に暮らした子どもたちなのですが、同じ年の割りにすごく大人っぽくてしっかりしていたので、それまでは妄想の世界に生きていたのが、現実を見せられたというか。拘っていたのは私だけだったのか、いつまでもギャアギャア言ってる場合じゃないという気持ちになりました。
★原一男監督も認めた、命がけの映画
Q:ところで、この映画に出てくる人みんな優しいと思いました。お父さんとお母さんも、カメラが入っている状況で真剣に話を聞いて向き合ってくれてましたし。映画を撮って、家族との関係性はどう変わっていきましたか?
小野:この映画を作ってから2年くらいは、家族の中で誰も映画のことは口にできない、家族の中のタブーみたいになっていました。過激すぎて誰も受け入れられなかったんです。その間、長男が結婚して子供ができたり、父が病気になったり、いろんな出来事があって家族の形が変わっていく中で、次第にこの映画への執着が薄れていったんです。ようやく今年ポレポレ東中野で公開のためにもう一度家族に公開の許可をとりました。これだけ時間がかかったのも、この映画のやったことの重大さだと思いますし、家族が変わらなければこの映画は受け入れてもらえず、映画として一番不幸な「お蔵入り」で終っていたと思います。
Q:制作して公開まで6年も経っていますが、その間に作品に対する思いに変化はありますか?
小野:6年前だったらこんなに人に受け入れてもらえなかったのではないと思います。6年前は、私と映画は一体だと固執していて、映画の批判=自己否定になってしまいましたが、ようやく映画との距離感がつかめるようになりました。いまは観てくれた人はどう考えたんだろう、どう受け止めたんだろうという方向に興味が向くようになりました。作品が自分のものであるという考えからようやく自由になれたと思います。映画を人に観てもらって、初めて映画になったという気がします。
Q:この作品の製作総指揮である原一男さんですが、実は以前にこのインタビューに出ていただきました。そのとき、「最近の若い奴は命がけで映画を作っていない。なよなよしててけしからん!」と嘆いていました。そんな原さんが応援したのには、やはりこの作品の命がけの真剣さが伝わったからだと思います。原さんは出来上がったときなんと言っていましたか?
小野:原さんはこの映画の5人目のスタッフというスタンスで関ってくださりました。原さんがいなければできなかったことがたくさんありますし、先輩の胸を借りるつもりで作りました。傑作だ、と言ってくれています。
Q:原さんは、昭和から平成に変わって問題が見えにくくなっていて、テーマを外部に求めるのではなく、自分の内面や、家族などのごく近い範囲に求める傾向があると批判的におっしゃっていました。そのような状況の中で、小野監督も今後何を撮っていくかというのは考えていかなければいけませんね。
小野:私は実は昭和の人間なんです。『極私的エロス・恋歌1974』大好きですし。原さんのやり方を受け継いで、今の時代にどういうものが残せるか、自分が残したいものは何かということを考えて、形にしていきたいと思っています。いま企画を構想中ですが、自分の家族ことや、先祖の時代まで遡って、何が消えかけているか、何が今の時代に重要なのかということを考えています。結局、人に観てもらう映画を作るということは、今の時代に必要なものを形にするということなんだと思います。
★5年前だったら受け入れられなかった
Q:大澤さんは「アヒルの子」にはどのように関ったのですか?
大澤:「アヒルの子」では主に編集として関わりました。
Q:編集は映画を作る上で一番重要な部分ですよね。監督と相談しながら編集していったのでしょうか?
大澤:意見は取り入れながらやりましたが、全部聞いていると収集がつかないので、できる範囲内でという感じでした。
Q:編集するときはやはり、観る人のことを考えて作るものでしょうか?
大澤:そうですね。学生の卒業制作とはいえもちろんそこは強く意識しました。完成間際くらいのときにこの作品は劇場公開するべき作品だと、これは行けるだろうという手ごたえを感じていました。
Q:この作品のテーマが時代に要求されるものがあるというような、ピンときた部分があったということでしょうか?
大澤:はい。いろんなきっかけで、観てもらえる作品だろうと思ってましたね。
Q:実際上映して、手ごたえはどうでしたか?
大澤:非常に面白かったです。やはり5年寝かせたというのが功を奏したと思います。5年前の社会状況といまとは違っていて、5年前だったらこういう映画はもう終っただろう、2000年代初頭、もしくは90年代後半の感覚だろうと。でも5年経って、また揺り戻しがきている気がします。エヴァンゲリオンが流行った90年代後半から10年経ってまた戻ってきた感じというか、モラトリアムな感じが実はまだ燻っているということが、表面的には見えなかったけれど、お客さんの反応を見て、求めている人、待っていた人がいるんだなあということがわかりました。これはある程度予測はしていましたが、劇場で反応を見て実感できました。まあ本当はすぐ公開するつもりだったんですけれど、結果的にいいタイミングで上映することができました。
Q:最後に監督にお聞きしますが、最後に100年後の映画館はどうなっていくと思いますか?またどうなって欲しいと思いますか?
小野:それは私たち作り手も考え続けなければいけないことだと思っています。ネットで観れたり、3Dが出てきたり、映画を取り巻く状況は変わり続けていますが、映画の原点は自分一人で楽しむものではなくて、人と観る喜びであると確信しています。そして私にとって映画館は、家族が崩壊していて人生に居場所が無いと思ったときに、家族から逃げる場所でした。そんなふうに誰かのための避難場所であって欲しいし、誰かと出会う場所、映画と出会う場所であり続けて欲しいと思っています。そのためにも、私も作り続けるという形で貢献していきたいと思っています。映画を体験してもらうためには、まずは子供を映画館に連れて行くというようなことから始めなければいけませんね。
Q:その前に、子供を作らなければいけませんね。
小野:そうですね(笑)
Q:監督の笑顔が見れてよかったです。映画のままだったらどうしようかと思いました。今日はどうもありがとうございました。
2010年7月17日(土) ジャック&ベティ応接室にて
<プロフィール>
小野さやか
1984年生まれ、愛媛県出身。高校卒業後日本映画学校に入学。2年次から映像ジャーナルゼミに所属し、ドキュメンタリーの制作を学ぶ。本作品は同校卒業制作として制作された。本作が初監督作品。
◎小野監督ブログ『白鳥になりたいのよ、わたし』
大澤一生(おおさわかずお)
1975年生まれ。日本映画学校でドキュメンタリーの制作を学び、卒業後には独立系ドキュメンタリー映画の制作に携わる。『戦争をしない国 日本』(06)に助監督、『バックドロップ・クルディスタン』(07)に製作、撮影、編集として参加。『ただいま ~それぞれの居場所~』(10)に録音として参加。今後の活躍が期待される若手プロデューサーの一人。
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